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ラ・ラ・ラ・メディテーション

ラ・ラ・ラ・メディテーション

瞑想による変容のプロセス・ワドゥダ

瞑想による変容のプロセス
マ・デヴァ・ワドゥーダ

以下の文章は、市民出版社発行の和尚講話禄「ヴイギャン・バイラブ・タントラ」シリーズの第2巻、第3巻に掲載されているワドゥダ(OSHOアカデミー・ディレクター)の解説から抜粋です。内なる世界の科学者であるワドゥダの、この瞑想による変容のプロセスの描写は、とても大切な示唆に富んでいるものと思い、ここに転載します。(VIJAY)

<扉としてのハート>

私の経験から言いますと、瞑想というものを始めるときに、とても重要な役割を果たすのが、ハートの瞑想です。本当のところ瞑想にはふたつの段階しかないと言っていいでしょう。それは頭からハートヘ、そして、ハートから臍つまり原初の中心へというふたつの段階です。

 いったんハートが開いたら、あなたは物事をありのままに受容するようになります。これは非常に深い受容です。いったんその受容性が生まれたら、自分の目を内側に向けることができるようになります。そして自分の内部で実際になにが起こっているのか見ることができるようになります。この受容のスペースが生まれるまでは、自分の内側の物事は隠されたままです。
 
 私たちの文化はすべて、自分自身を否定し、批判し、拒絶するようしむけるものです。私たちの中で否定され、批判され、拒絶されたものは、すべて下にもぐり、自分の目には見えなくなります。ハートのスペースが開かないかぎり、本当の意昧での瞑想は起こりません。

 だからこそ和尚はハートのことを瞑想の扉だと言うのでしょう。この空っぽのスペース、つまり受容性が現れるときの感覚、それは、人々が愛だと思っているあの情熱的な感覚とは違うものです。そういった愛は普通、他人に対する化学的・ホルモン的な反応であり、人を強烈にひきつけるものです。それを私たちは愛と呼んできました。
 
 いったい和尚は愛という言葉をどんな意味合いで使っているのでしょう。私たちは最近インドのプーナにある和尚コミューンで、これらの瞑想法を実際に体験する三ヶ月のトレーニングコースを実施したのですが、その中では愛という言葉を使いませんでした。なぜならその本当の意味について人々の間に大きな混乱があるからです。和尚は言っています。

 愛はそれ自体、最大の方法だ。だが愛は難しい。ある意味で不可能だ。愛というのは、自分の意識から自分自身を追い出し、そしてエゴがあったその同じ場所に他者を置くということだ。他者を自分自身に置き替えること、それが愛の意味だ。あたかも自分はもういなくなって他者だけがいる、というように。


 このような愛については、一瞥以上のものを知っている人はそれほどいないのではないでしょうか。だから私たちは愛という言葉をさけ、そのかわりに受容性、慈悲、直感、遊び、静寂、信といった言葉を使うのです。こうした資質はハ―卜が実際に開いて初めて開花してくるものです。

 なぜハートが開くまでは、実際に瞑想の体験ができないのかというと、そこに善し悪しの判断が働くからです。和尚の言葉によると、瞑想の本質は観照(見つめること)、くつろぐこと、価値判断のないことです。ハートが開いて初めて、価値判断せず、あるがままを受け容れることができるようになります。すると自分の内側でなにが起こっているか見えるようになるのです。

 たとえ数歩先んじている人がいて他人の内側を見ることができたとしても、それはたいしたことではありません。唯一大事なことは、自分自身がその受容のスペースあるいは価値判断のないスペースの中で内側を見つめ、そこにあるものをありのまま見て、追い払おうとしたり、変えようとしないことです。変えようという考えさえも、あるがままの自分に対する微妙な否定となります。         

だからハートが開き受容性が感じられたら、そこにはエネルギーのものすごい発見があり、自在無碍で、混沌として、遊びに満ちています。するとその人の成長は連続的ではなくなり、一歩一歩片足を下げてもう片足を上げてまた下げるといった具合ではなくなり、なにか垂直的な飛躍のようになってきます。そのプロセスの中で、ものすごい創造性が解き放たれのです。
  
<チャクラを探る>                
 
ハートのスペースを人々が本当に発見するのは、ハートの瞑想を始めて一ヶ月以上経ってからです。いったんこのスペース、つまり、受容性が現れたら、非常に深い探究が可能となります。参加者は自分の内側にあるたくさんの神秘を徐々に解明していくでしょう。そういった神秘を発見するたびに、それが生の単純な出来事だということがわかります。
 
ハートのスペースが開いて初めて、その下にあるセンターに降りていくことができます。第三のチャクラ(センター)において力のエネルギーあるいは力の乱用を探究し、第二のチャクラにおいて感情-怒り、悲しみ、恐怖-を探究し、第一あるいは基底のチャクラで性(セクシュアリティ)、生死の恐怖、生存に関する恐怖を探究することができるようになります。
 
 無意識の中にしまい込まれていたものが、グラスの中のシャンパンのようにブクブクと湧き上がってくることでしょう。それは頂へとやってきて放たれては、また別のものが上がってきては放たれるのです。自分がハートにとどまれば、こうしたものに対する否定や価値判断や拒絶はなくなり、今まで抑圧されてきたものが自らの姿を現します。抑圧が解き放たれたら、数々のの宝石が湧き上がってきます。最初は抑圧を解き放ち、(ちょうどたまったゴミを外に捨てるように)、それから宝が現れ出てくるのです。下層のセンターから抑圧や恐怖が一掃されたら、エネルギーの流れを止めていたものが解き放たれます。
 
 いったんそれが解き放たれたら、エネルギーは下層のセンターからハートヘとさかのぼり、そしてそこから上方の喉のセンターヘと流れ始めます。すると創造性が解き放たれあなたはどこまでも自在無碍になります。そして瞬間から瞬間へと生きるようになります。それ以前には抑圧にまつわる原則や、規定や、社会的条件づけによる無意識的な様式に支配されていますが、その自在無碍や優しさや愛の表現から遊び心が生まれ、自分自身を笑う能力が生まれるのです。そしてその笑いには大きな治癒力があります。
 
 それが起こったら、今度は第三の目を開く瞑想が始まります。第三の目(六番目のチャクラ)を開ける瞑想には、実際のところふたつの基本的な方法があります。ひとつは脊髄の底からエネルギーを上げるやり方-身体のエネルギーセンターを下から全部貫き、内側から第三の目を撃って開けるやり方です。もうひとつの方法はもっと直接的なもので、見る瞑想によるものです。

 和尚によると、およそ八十パーセントのエネルギーは目を通じて失われます。エネルギーはただ目から出てしまい、そのすべてが失われます。見る瞑想では、エネルギーは方向を転じて中に戻り、第三の目を撃って開けます。どちらの瞑想が向いているかは、自分のタイプによってしばしば異なるので、試してみる必要があります。またもうひとつ、和尚によって考案されたすばらい瞑想で、グリシャンカール瞑想と呼ばれるものがあります。これは青い光を用いるもので、第三の目を育んで開けるすばらしいやり方です。

注】グリシャンカール瞑想 十五分ずつ四つのステージで構成される一時間の瞑想法。第一ステ-ジでは、鼻から深く息を吸い込み、肺をいっぱいにしてできるだけ長く息を止め、そして口からゆっくり息を吐き、肺を空っぽにしてできるだけ長く息を止める。それを繰り返す。 第二ステージでは、普通の呼吸に戻し、ロウソクの炎か青色の閃光ストロボを静かに見つめ る。第三ステージでは、目を閉じて立ち上がり、身体をゆったりとさせ、ラティハンの起こ るがままにする。ラティハンというのは自分の意志的なコントロールを超えて身体が自然に 動くこと。第四ステージでは、目を閉じたまま静かに横たわる。<和尚『オレンジ・ブ。ク』 または『新瞑想法入門』(ともに、めるくまーる社発売)参照>



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